おいでなすったー

テーマとか宣言すると一夜坊主で終わることがわかったので、そういうのやめて、書き散らかしていきます

プログラミングを道徳にするな

三日坊主のブログって再開するきっかけが難しいよね。そこへくると、新年というのは具合がよろしい。

プログラミングの話をしましょう。

特にここ数年かなあって思うんだけど、QiitaにQiiteneeyoって感じのポエム書かれたりして、プログラミングとプログラミングのべき論に関する議論がやかましい。もっと、プログラム書いた、動いた、たのしい!にフォーカスしていかないと、やってられなくない?って思います。

更に数年さかのぼると、この界隈には、アジャイルみたいな考え方、流儀が導入されてきたという過去があるんだけれども、そもそもコンクリ流し込んだり半田付けしたりする分野よりも、ソフトウェア開発はやり直しがききやすいテーマであって、柔軟に調整して実用に良いものを作りましょうという方針でみんなが合意できるならば、元来、そのように仕事を進めていくことは比較的困難ではないはずなのです。実際にはその柔軟な対応というものをデメリットも含めて包容することは難しいので、「このやり方に形式的に従えば、自然とうまくいく」という形式を推し進めたのがアジャイルとかスクラムだとオレは理解しているんだけど、とはいえ「なぜそうするのか」は大切だよね。

形式の部分だけを切り取って有り難がると良くないことがあって、それは形式が道徳になってしまうということです。朝会をやるとかスプリントの振りかえりをやるみたいなことが道徳と結びついてしまうと、すごくキモい事態になってしまうので、おれはそういう体育会系的な気持ち悪いものがいやでコンピューターやってんだからこっちくんな、という思いがあります。

いや、形式を導入してもいいよ。ホワイトボード置いてポストイット貼ってもいいよ。でもそれを道徳にしないでほしい。そして、道徳を守っていれば目的とかわからないけどオッケー、みたいなのはやめてほしいのだ。

こういう書き方をしないやつは死すべしみたいなところにフォーカスし過ぎると、道徳に従うことが目的化してしまう。これが実現したいではなくてこの枠からはみ出してはいけないになってしまうと、できた!やったー!という達成感を得る機会が失われて、「わたし、このやり方で間違ってないよね?わたしは正しいハズだよね?」みたいな、小説だったらあと100ページ以内に死ぬフラグが立った人みたいになってしまう。

プログラミングは何かを実現する道具なのだから、実現したい何かという目的が大事だし、もっといえば、これからやってみようというひとのためには、画面になんか出たとか、そういうレベルのことの実現だって自分だって最初はうれしかっただろう、そういうものを、俺たちはちゃんと守っていられているか、みたいなことをちょっと思いました。